2008年12月06日

イブラヒムおじさんとコーランの花たち(2003)

イブラヒムおじさんとコーランの花たち(2003)

【story】
少年と老人の、宗教や世代を越えた心の交流を描いた感動ドラマ。家族の愛を知らずに育ったユダヤ人少年が、年老いたトルコ商人との出会いを通して人生の素晴らしさを知っていく。原作者エリック・=エマニュエル・シュミットが実在した祖父の思い出を基に描いたベストセラーの映画化。主演は名優オマー・シャリフと新人ピエール・ブーランジェ。監督は「うつくしい人生」のフランソワ・デュペイロン。
 1960年代初頭のパリ。ユダヤ人街のブルー通りに父と2人で暮らす13歳の少年モモ。母はモモが生まれてすぐに兄ポポルを連れて家を出ていってしまった。いつも不機嫌そうな父は、優秀だったポポルを引き合いに出してモモに小言を言う毎日。家族の愛情に飢えていたモモだったが、一方で思春期の少年らしく通りに立つ娼婦を眺めては落ち着かない様子。近所で小さな食料品店を営む年老いた孤独なトルコ人、イブラヒムは、そんなモモをそっと見守り続けていた。そうとは知らず、モモはイブラヒムの店で万引きを繰り返していたのだったが…。
(allcinema)http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=320242


【review】
純粋な少年とおじいさんの心温まる映画だと思っていたので、13歳の少年が16歳だと偽り、コツコツと貯めたお金で娼婦と関係を持つという始まりは衝撃的だったicon196icon10
だけど物語が進んでいくうちに少しだけ分かったような気がした。モモの両親は離婚し、父親に引き取られたモモは、母親と兄ポポルのことを全く覚えていない。父子二人の生活なのに父親はモモに心を開こうとせず、口にするのはいつも兄ポポルのことばかり。モモは心が安らげる場所がなく、孤独だった。同じ年代の子供以上に女性に興味を持つのは、幼いころから母親という女性がそばにいなかったから。母親のぬくもりを知らないモモは、娼婦たちに母親のぬくもりを求めたんだと思う。彼女たちもモモを温かく迎えるが、そこに金銭の問題以上に彼女たちのか弱い者への優しさを感じる。
繰り返し彼女たちのもとを訪れるモモは、ある意味純粋な少年だったと思う。

のちに兄ポポルは存在しなかったと分かるのだけど、一体なぜお父さんはそんな嘘をつき続けたんだろう?
―父親は人をどう愛せばいいか分からなかった。だから架空のポポルという存在を創りだし、自分は人を愛せるが、モモはポポルに比べて劣っているから愛せないという態度を取り続けた。お父さんはあまり出ないけど、実はこの映画の中で一番孤独で寂しい人だった。
イブラハムおじさんに出会わなければ、もしかしたらモモも父のように人を愛することのできない大人になっていたかもしれない。誰からも愛されなければ、人をどう愛せばいいかなんて分からない。

イブラハムおじさんは孤独だったモモに無償の愛を注いでくれた。たぶんおじさんもモモと同じような境遇に生まれ育ち、しかし好運にも自分を愛してくれる存在に出会うことができたから。それは亡くなった奥さんだった。
彼のすべてを超越したような存在はモモに安らぎを与えてくれ、モモは初めて自分を守ってくれる人を見つけた。母親がモモを引き取りに来たとき、彼はとっさに自分はモモの友達でモモは出て行ったと嘘をつく。本当の母親ならそんな嘘見抜けるんじゃないの??とも思うけど、モモはもう自分を愛してくれる人たちの存在で十分だったんだと思う。彼らが家族であり、初めて会った母親は彼にはもう“他人”としか映らなかった。

物語の最後にモモが大きくなったあとどんな生活をしているかが分かるが、彼はイブラヒムおじさんの教えをちゃんと受け継いでいることが伺える。ダークな部分も描きながら、観終わった後にはじんわりと優しさが染みる一本でしたicon114


【追記】
12/08
ある方にこの映画に対する感想を伺ったところ、かなり違う解釈をされていたので参考までに載せておきます。
今更ながらネタばれ注意icon77

まず、モモがイブラハムおじさんの養子になったことについて。保護者がいなくなったモモはイブラハムおじさんに自分を養子にしてと頼み、おじさんも快諾する。しかしユダヤ人であったモモの父が、イブラハムおじさんを「アラブ人」(本当はトルコ人)と差別的に呼んでいたとおり、彼らの人種はマイノリティの中のマイノリティであった。つまり、養子になる=トルコ人(イスラム教)になるということは、少なからずモモをそういった差別の中に置くのではないかということである。幼いモモにとってその事実はあまりにも重いもので、自分も孤独だったからといって身勝手だという。最低限モモを母親にきちんと会わせるべきではなかったか。

次に、イブラハムおじさんの最期について。モモとイブラハムおじさんは新車に乗っておじさんの故郷まで旅をするのだが、もうすぐで着くという時におじさんはモモを置いて一人で行ってしまう。しばらくして村の人が迎えにきたので行ってみると、車が横転しており、おじさんは瀕死の状態だった。おじさんはモモに「旅はもう終わりだ」と言い、この世を去る。
おじさんここで事故って。。。と思ったがそれもありかと普通に流していたのだが、実はおじさんは自殺だったという。確かになぜ言葉もしゃべれないモモを見知らぬ土地に置いていったのか疑問だったので、最初から自殺するつもりだったと考えると納得がいく。おじさんは自分の先が短いことを知っており、それなら自分の故郷で最期を迎えたいと思った。それくらい故郷への思いが強かったのだ。このことを踏まえて、またおじさんが身勝手、無責任だと思うらしい。

最後に、モモが大人になったときについて。前にも書いたとおり、物語の最後にモモが大人になった姿が映し出される。モモはブルー通りのおじさんの店を受け継いでおり、優しさに溢れる青年になっている。
しかしせっかくおじさんが愛情を注いでくれ、人生に対して前向きになれたのなら、もっと違うものを目指せばいいのにということだった。結局彼もおじさんと同じような人生を歩んでいくことになるのは、受け入れがたいという。
だけどこれにはあまり賛成できないicon23というのもおじさんが財産を残してくれていたとして、モモはせいぜい中学校を出れればいいくだいだろう。その頃の一般家庭か貧困家庭の子供たちが中学校を卒業して働ける場所は、そうなかったはずである。あったとしても肉体労働が一般的だろう。たとえ店で働かなかったとしても、自然とモモの未来は見えてくる。だがモモはおじさんが残してくれた店を選び、そこで人々と交流しながら生活するのだ。

追記まで長くなってしまったface07映画は見る人の立場、年齢、環境によって全く解釈が違うことがあるけれどそこがおもしろいicon64





Posted by ERINGI at 01:38│Comments(0)
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